Share

第3話 頬を打つ音

Author: なつめ
last update publish date: 2026-07-10 02:13:18

 詩乃は、息を吸った。

 病院の廊下に流れる消毒液の匂いが、ひどく鋭く肺へ刺さる。白い照明の下、怜司の影が一歩分だけ近づいていた。革靴の先が、磨かれた床に冷たく映っている。

 芽衣は怜司の腕の中にいた。細い肩を震わせ、上着の襟元を握りしめている。その横顔は青ざめて見えたが、伏せた睫毛の影の奥で、ほんのかすかに唇の端がゆるんでいた。

 詩乃は、その笑みを見なかったことにできなかった。

「違います……今のは、私がぶつかったんじゃありません」

 声はかすれていた。頬の内側が乾き、舌がうまく動かない。それでも、言わなければならなかった。

 看護師たちが困ったように視線を交わす。廊下の隅には、小さな黒い半球の監視カメラがあった。天井の端で黙ってこちらを見下ろしている。その存在に気づいた瞬間、詩乃は細い希望を掴むように顔を上げた。

「見ていたはずです。あそこに、カメラも……」

「詩乃」

 怜司の声が、言葉を切った。

 低く、硬い声だった。夫が妻を呼ぶ声ではない。秩序を乱した者を黙らせる声だった。

「私は、娘が……」

 奏音の名を出しかけて、詩乃は息を詰めた。

 言えない。

 ここでは、言えない。

 芽衣の目がわずかに細くなる。怜司の背後で、看護師の一人が不自然に目を伏せた。誰かが遠巻きに立ち止まり、誰かが携帯電話を握りしめる気配がした。人の視線が集まり、空気だけが重くなっていく。

 詩乃は唇を噛み、もう一度だけ言葉を繋ごうとした。

「私は、急いで病室に行かなければならなくて……だから、こんなことをしている時間は……」

 乾いた音が、廊下に響いた。

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 視界が横へ弾ける。白い床、薄い壁、掲示板に貼られた面会時間の紙。そのすべてが斜めにずれて、耳の奥で鈍い音が鳴った。遅れて、左の頬に熱が走る。焼けるような痛みが皮膚の上に広がり、口の中に鉄の味がにじんだ。

 詩乃は、よろめいた足でどうにか立っていた。

 怜司が手を下ろす。

 その顔に、動揺はなかった。

 自分が妻を打ったという事実よりも、妻が人前で場を乱したことのほうが重大だと信じている顔だった。整った目元は冷たく、唇は薄く結ばれている。七年間、詩乃が見続けてきた、鷹宮家の長男の顔。

「怜司さん、そんな……」

 芽衣が震える声を出した。

「詩乃さんも、きっと悪気は……」

 止める気などない声だった。

 形だけの悲しみ。計算された怯え。弱い女の仮面を被りながら、確実に相手の立場を奪っていく声。涙は流れていないのに、泣いているように見せるのが、芽衣はひどく上手かった。

 詩乃は、腫れていく頬に手を当てた。

 熱い。

 けれど痛みよりも、周囲の視線が苦しかった。見知らぬ人々の目。哀れみ。好奇心。関わりたくないという沈黙。誰も、すぐには近づいてこない。誰も、怜司を止めない。

「これ以上騒ぎ立てるな」

 怜司は言った。

「鷹宮の名を汚すな」

 その言葉が、最後の一滴のように胸へ落ちた。

 詩乃の中で、七年間かけて形を保っていたものが、静かに崩れた。愛情とも、期待とも、諦めともつかないもの。いつか分かってくれるのではないかと、愚かにも抱き続けていた淡い祈り。

 それが、音もなく終わった。

 怜司は芽衣の肩を抱き直した。

「行くぞ」

 芽衣は怜司に支えられながら、ゆっくりと歩き出す。すれ違いざま、彼女の指先が上着の胸元を撫でた。白い袖口から、淡い金色の小さなチャームが覗く。鈴のような形をしたそれは、詩乃の記憶のどこかに引っかかったが、考える余裕はなかった。

 芽衣が振り返ることはなかった。

 怜司もまた、一度も詩乃を見なかった。

 足音が遠ざかる。

 廊下に残された詩乃は、しばらく動けなかった。頬は熱を持ち、指先は冷えている。呼吸をしようとすると胸の奥が軋んだ。

 けれど、その時、奏音の顔が脳裏に浮かんだ。

 小さな手。細い髪。眠る時、詩乃の指を握って離さない癖。

 詩乃は、ふらつきながら歩き出した。

 小児病棟へ向かう廊下は、先ほどよりも長く感じられた。足音が頼りなく床に落ちる。角を曲がると、美琴が椅子から立ち上がった。顔色を失った詩乃を見るなり、その表情が一変する。

「詩乃、その頬……何があったの」

 美琴の声が震えた。

 怒りと恐怖が混じった声だった。彼女の手が詩乃の肩へ伸び、寸前で止まる。触れていいか迷うような、痛ましい沈黙が落ちた。

 詩乃は首を振った。

「あとで……今は、奏音のところへ」

「でも」

「お願い」

 それ以上、美琴は聞かなかった。唇を噛みしめ、すぐに病室の扉へ視線を向ける。その横顔に、言葉にしない怒りが張りついていた。

 病室の中は、淡い機械音に満たされていた。

 規則正しく鳴るモニター。透明な点滴の管。酸素を送る小さな音。白いシーツの上に横たわる奏音は、いつもよりさらに小さく見えた。頬の赤みは薄く、唇の色も頼りない。

 詩乃はベッド脇の椅子に座り、奏音の手を包んだ。

 小さな指は熱かった。

 けれど、握り返す力は弱い。

「奏音……ママ、来たよ」

 声を出した途端、喉が震えた。泣いてはいけないと思った。奏音が苦しい時に、母親である自分が崩れてはいけない。痛む頬も、屈辱も、怜司の冷たい声も、今はすべて遠くへ押しやらなければならない。

 奏音の睫毛がかすかに揺れた。

 やがて、薄く目が開く。

「ママ……?」

「うん。ここにいるよ」

 詩乃は笑おうとした。

 けれど頬が引きつり、うまく笑えなかった。奏音の視線が、ゆっくりと詩乃の顔を辿る。そして、腫れた頬の上で止まった。

「ママ、痛いの?」

 その一言で、詩乃の中の堤が壊れた。

 自分の痛みなど、どうでもよかった。奏音が苦しんでいる。守らなければならない。母親なのだから、泣いている場合ではない。そう何度も言い聞かせていたのに、涙が頬を伝った。

「大丈夫。ママは、大丈夫だから」

 震える声でそう言うと、奏音は詩乃の指を弱々しく握り返した。

「泣かないで……」

 幼い声が、詩乃の胸を裂いた。

 詩乃はその小さな手を両手で包み、額をそっと寄せた。消毒液の匂いの中に、奏音の髪の甘い匂いがかすかに残っている。それだけで、詩乃は呼吸を繋いだ。

 この子を守る。

 夫への愛でも、鷹宮家の名でも、七年間の献身でもない。

 詩乃が守るべきものは、この小さな命だけだった。

 夜が深まるころ、奏音の状態が少し落ち着いたと医師から告げられた。美琴が病室に残ると言ってくれたため、詩乃は廊下の奥へ出た。

 窓の外には、街の灯が滲んでいる。

 詩乃はスマートフォンを取り出し、登録してある番号を押した。数回の呼び出し音のあと、落ち着いた男の声が耳に届く。

『詩乃さん?』

 水無瀬旭。

 美琴の兄であり、国際弁護士であり、奏音の戸籍を守るために、これまで密かに力を貸してくれた人。

 詩乃は腫れた頬を押さえた。

「旭さん……離婚協議書を作ってください」

 電話の向こうで、短い沈黙が落ちた。

 問い詰める声は返ってこなかった。ただ、紙を置くような小さな音がして、旭の声がわずかに低くなる。

『本気だね』

「はい」

 詩乃は窓に映る自分を見た。

 頬は赤く腫れ、目元は濡れていた。それでも、その顔はもう、夫の帰りを待つ女のものではなかった。

「もう、鷹宮家には戻りません」

 旭は少しだけ黙ったあと、静かに告げた。

『では、今夜から動く』

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 結婚七年目冷たい夫を捨てた夜、義弟が迎えに来ました 〜秘密を抱いた契約妻は、もう愛を乞わない〜   第94話 触れない義弟

     朔弥は、詩乃との接触を減らしていた。 裁判へ悪影響が出ないように。義弟との関係をまた切り取られないように。詩乃の母親としての立場を、余計な疑いで傷つけないように。そう理由を並べれば、誰もが納得する距離だった。 けれど詩乃は、その距離の中に別のものも見ていた。 彼自身の遠慮。罪悪感。踏み込めば壊してしまうものを知っている男の、慎重すぎる沈黙。 その日、詩乃は証拠資料を受け取るため、小さな劇場を訪れた。 表向きには閉館後だった。古い劇場の客席には誰もいない。非常灯に近い淡い明かりだけが通路を照らし、深い赤色の椅子が静かに並んでいる。舞台の幕は上がっていた。板張りの床には、わずかに埃と木の匂いが残っている。 詩乃は舞台の上に立った。 何年ぶりだろう、と思った。 幼い頃から、音楽は家の中にあった。父のヴァイオリン、母の歌声、譜面台、調律されたピアノ、客席の暗がりと舞台の光。神澤家が壊れる前、詩乃の未来は、こういう場所の先に続いているはずだった。 けれど父を失い、母が病床へ沈み、借金の代わりに鷹宮家へ嫁いだ日から、詩乃は自分の音楽を畳んだ。 音を出す余裕などなかった。 妻として息を殺すことと、母として奏音を守ることだけで、人生は埋まっていった。 客席の後ろから、朔弥の声がした。「君は、こういう場所に立っていたんだね」 詩乃は答えなかった。 振り向くと、朔弥は客席の一番後ろに座っていた。近づいてこない。舞台下に立つこともしない。彼の膝の横には、資料の入った封筒が置かれている。 その距離が、痛いほど明確だった。「ここは、知り合いの持ち物?」「昔の伝手。今はほとんど使われていない劇場だよ。人目が少ない場所の方がいいと思って」「私と会う場所まで、証拠にされるからですか」「そう」 朔弥は否定しなかった。「君がこれ以上、僕のせいで傷つくのは嫌だから」 詩乃は舞台の中央で、少しだけ視線を落とした。 助けられている。 けれど、近づけば危うい。 この関係を、どう呼べばいいのか分からなかった。「証言台で」 詩乃はゆっくり口を開いた。「愛していると言った理由を、聞いてもいいですか」 客席の奥で、朔弥の表情がわずかに変わった。「裁判で言う必要はなかったでしょう」「嘘をつけば、君を守れる気がしなかった」「本当のことを言えば、私が困る

  • 結婚七年目冷たい夫を捨てた夜、義弟が迎えに来ました 〜秘密を抱いた契約妻は、もう愛を乞わない〜   第93話 父親だけの一日

     裁判所の提案により、怜司と奏音だけで過ごす時間が設けられた。 父親としての面会を、詩乃の目の届かない場所で短時間だけ行う。ただし、医療スタッフが近くに待機し、異変があればすぐ詩乃へ連絡できること。奏音の体調を最優先し、予定より早く切り上げる判断も認められること。行き先は事前に共有し、移動距離も短くすること。 条件は細かかった。 それでも、詩乃は不安を隠せなかった。 奏音の髪を整え、薄手の上着のボタンを留め、薬と水の入った小さなポーチを確認する。何度も確認したはずなのに、まだ足りない気がした。胸の違和感が出た時の薬、連絡先、酸素、保険証の写し。どれもバッグに入っている。それでも、詩乃の手は何度も同じ場所へ伸びた。「ママ」 奏音が小さく呼んだ。「怜司さんと、ちょっとだけ行ってくるね」 その声に、詩乃は胸が締めつけられた。「うん。疲れたら、すぐ休んでね。苦しくなったら、我慢しないで言うのよ」「うん。大丈夫って言わない」 奏音は真剣に頷いた。 詩乃が何度も伝えてきた言葉だった。痛い時は痛いと言う。怖い時は怖いと言う。いい子でいようとして我慢しない。奏音がそれを覚えていることに、少しだけ救われる。 怜司は玄関の外で待っていた。 高価な車ではなく、福祉搬送にも対応できる落ち着いた車を用意していた。医療スタッフが同乗せずとも、すぐ後ろの車で待機している。運転手も、奏音の体調に合わせて休憩できる場所を事前に確認しているらしい。 以前の怜司なら、もっと目立つ場所を選んだだろう。貸し切りの施設、高価な食事、誰もが羨むような贈り物。けれどその日、彼が選んだのは、小さな植物園だった。 人混みの少ない時間帯。 歩く距離の短い温室。 休めるベンチが多い場所。 奏音は温室の入口で、葉に落ちる光を見上げた。「お花、いっぱい」「ああ」 怜司は歩幅を落とした。奏音の隣を歩くためには、いつもの速度では速すぎる。ほんの数歩進むたびに、奏音の顔色を見る。楽しそうか。疲れていないか。息は乱れていないか。詩乃が毎日していることを、怜司はぎこちなく真似ていた。 奏音は小さな黄色い花の前で立ち止まった。「ママ、黄色好きかな」「好きだと思う」「怜司さんは?」 怜司は少し考えた。「……あまり考えたことがない」「じゃあ、今日から好き?」 奏音の問いに、怜司は

  • 結婚七年目冷たい夫を捨てた夜、義弟が迎えに来ました 〜秘密を抱いた契約妻は、もう愛を乞わない〜   第92話 漏れた裁判記録

     最初に気づいたのは、美琴だった。 朝の薬を飲み終えた奏音が、窓際の椅子で絵本を広げている時だった。詩乃は体温を記録し、次の診察へ持っていく書類を整理していた。退院後の生活はまだ不安定だったが、奏音は少しずつ笑う時間を取り戻している。そんな穏やかな朝に、美琴のスマートフォンが小さく震えた。 画面を見た美琴の顔色が変わった。「詩乃」 呼び方だけで、悪い知らせだと分かった。 詩乃は奏音へ視線を向けた。奏音はまだ絵本を見ている。こちらの空気が変わったことには気づいていない。詩乃は静かに立ち上がり、美琴を廊下へ連れ出した。 美琴が差し出した画面には、いくつもの見出しが並んでいた。 心中未遂の母を持つ冷遇妻。  病気の娘をめぐる財閥兄弟の争奪戦。  義弟との新生活を望む妻。  暴力夫、それでも離婚拒否。 詩乃は、指先が冷えていくのを感じた。 非公開で扱われるはずの裁判資料が、ネット上へ漏れていた。 母の自死未遂。奏音の病状。詩乃と朔弥の関係を疑わせる記述。怜司が詩乃を打った事実。それらが、誰かの好奇心を満たすための見出しへ変えられている。 母の傷が、面白おかしく消費されている。  奏音の病気が、争奪戦という言葉で飾られている。  詩乃の恐怖も、怜司の暴力も、朔弥との複雑な関係も、すべてが誰かの指先で拡散されていく。 美琴は怒りで唇を震わせた。「最低。裁判資料まで漏らすなんて、もう人間のやることじゃない」 詩乃は画面を見つめたまま、すぐには答えられなかった。 怒りはあった。恐怖もあった。けれど何より、奏音に知られたらという思いで喉が詰まった。あの子は、自分の病気が人に迷惑をかけていると思い込んだことがある。母が責められる理由は自分だと、小さな胸を痛めたことがある。 これを見せるわけにはいかない。 その頃、怜司のもとにも報告が届いていた。 鷹宮グループの広報部と法務部が、すでに慌ただしく動き始めている。削除請求。発信元の調査。媒体への抗議。二次拡散への警告。怜司は会議室の画面に並ぶ見出しを見て、表情を失った。「削除を急げ。裁判所にも報告する。流出経路を洗え」 声は冷たかった。 だが、削除請求を出せば出すほど、別の批判も生まれた。 財閥による言論統制。  都合の悪い裁判記録を消そうとしている。  妻を黙らせ、次は世間を黙ら

  • 結婚七年目冷たい夫を捨てた夜、義弟が迎えに来ました 〜秘密を抱いた契約妻は、もう愛を乞わない〜   第91話 母の名前を汚さない

     詩乃は、母の病室を訪れた。 法廷を出た足で向かったわけではない。奏音の薬の時間を確認し、体調を見て、旭へ陳述書の準備について連絡を入れ、美琴に付き添いを頼んでからだった。それでも、病室の扉の前に立った時、胸の奥に溜まっていたものが一気に喉へ迫ってきた。 白い扉。 消毒液の匂い。 静かな廊下。 母の部屋は、いつ来ても時間が薄く止まっているようだった。 神澤澄香は、ベッドの上で眠っていた。細い腕はシーツの上に置かれ、点滴の管が静かに伸びている。頬は昔よりさらに小さく、喉元だけに、かつて声楽家だった面影が残っていた。詩乃は椅子を引き寄せ、母の手をそっと握った。 温かかった。 それだけで、涙が出そうになる。「お母様」 詩乃は低く呼んだ。 返事はない。 けれど、詩乃は話し始めた。「今日、法廷で、お母様の診療記録が出されました」 声が震えそうになり、詩乃は一度唇を結んだ。「お父様が亡くなった後のことも、病気のことも、長く眠ったままでいることも。私が奏音の母親として不安定かもしれないと疑わせるために、使われそうになりました」 母の指は動かない。 それでも詩乃は、その手を包む力を少しだけ強めた。「悔しかったです」 言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなった。「お母様が弱かったからじゃない。欠けていたからじゃない。お父様を愛して、神澤家を守ろうとして、最後まで必死で立って、それでも全部を失って壊れてしまっただけなのに。それを、私と奏音を引き離す理由にされることが、どうしても許せませんでした」 父の葬儀の日を、詩乃は思い出した。 黒い喪服。降り続く雨。母が棺の前で声を失った瞬間。誰かに支えられながらも、最後まで父の名前を呼ぼうとしていた母。その喉から音が出なくなった時、神澤家の音楽も一緒に止まったようだった。 母は、弱かったのではない。 限界まで耐えたのだ。「私は、お母様を恥だと思ったことはありません」 詩乃は母の手へ額を寄せた。「病気になったことも、眠ったままでいることも、奏音に会っても返事ができないことも、恥ではありません。傷ついた人を、恥のように扱う方が間違っています」 ベッドの横で、色鉛筆の箱が開く音がした。 奏音が小さな椅子に座り、膝の上に画用紙を広げていた。退院後の外出はまだ短時間しかできない。けれど今日は、どうしてもお

  • 結婚七年目冷たい夫を捨てた夜、義弟が迎えに来ました 〜秘密を抱いた契約妻は、もう愛を乞わない〜   第90話 母の診断書

     瑛子側から新たな資料が提出された時、詩乃は最初、その表紙に書かれた病院名を見ただけで息が止まった。 母の入院先だった。 法廷の空気が、急に遠くなる。旭が隣で資料を受け取り、すぐに目を走らせた。その表情が険しくなるのを見て、詩乃の指先は冷たくなった。 そこにあったのは、神澤澄香の診療記録だった。 父の死後、心中を図ったこと。長期にわたり意識障害と精神的な治療を受けていること。病床で意思表示が難しい状態が続いていること。そして、家族歴を踏まえれば、詩乃にも精神的な不安定さがある可能性を否定できない、という趣旨の意見書。 さらに、詩乃が奏音を出産した後に抑うつ状態にあったとする、出所不明の記録まで添えられていた。 詩乃は、資料の文字を見つめた。 母は何も悪くない。 父を失い、家を壊され、病の中で長く眠り続けている人だ。法廷で晒されるために生き延びてきたわけではない。声を出せない母の傷まで、詩乃を母親失格にするための材料として並べられている。 怒りより先に、身体が震えた。 あの白百合の花束を見た時と同じだった。美しい脅し。上品な手つきで、人の一番柔らかい場所へ刃を入れるやり方。瑛子は、奏音だけでなく、母の病室までもう一度法廷へ引きずり出したのだ。 瑛子側の弁護士は淡々と述べた。「原告の母親には長期にわたる精神的・身体的な治療歴があります。原告自身も出産後に抑うつ状態にあったとされる記録があり、未成年者の監護において情緒的安定性を慎重に確認すべきです」 その言葉の冷たさに、詩乃は唇を噛んだ。 出産後。 奏音を産んだ夜、詩乃は一人だった。父親へ知らせる道は閉ざされ、母は病床にいて、鷹宮家に頼ることもできなかった。泣きながら赤ん坊を抱いた。怖かった。眠れなかった。小さな呼吸が止まらないか、何度も胸に手を当てた。 それを、抑うつ状態という記録にして、今度は母親としての不適格を疑う材料にするのか。 詩乃の視界が滲みかけた時、向かい側で怜司の弁護士が資料へ目を落としていた。 弁護士は慎重に怜司へ顔を寄せる。「怜司様。こちらは離婚を拒むうえで、原告の精神的安定性に疑義を示す資料として利用できます。少なくとも親権や監護の争点と絡めれば——」 怜司は、書類を閉じた。「使用しない」 その声は低く、はっきりしていた。 法廷の空気が変わる。 瑛子

  • 結婚七年目冷たい夫を捨てた夜、義弟が迎えに来ました 〜秘密を抱いた契約妻は、もう愛を乞わない〜   第89話 離婚しない理由

     非公開の和解協議は、裁判所の小さな部屋で行われた。 法廷ほど広くはない。けれど、その狭さがかえって息苦しかった。白い壁、長机、低い空調音。机の上には、双方の書面と、裁判所側が用意した和解案の骨子が並べられている。詩乃は旭の隣に座り、向かいにいる怜司を見ないように、手元の書類へ視線を落としていた。 怜司は、新しい条件を提示した。 詩乃と同居しなくてもいい。  夫婦としての接触も求めない。  生活費も、奏音の治療費も、詩乃の母の入院費も怜司が負担する。  奏音の親権と監護は、詩乃を中心とする形で異議を唱えない。 ただし、法的な婚姻関係だけは残す。 詩乃は、しばらくその書面を見つめていた。 以前のような檻ではない。少なくとも表面上は、怜司は詩乃の生活に踏み込まないと言っている。奏音の親権を奪わないとも言っている。母の入院費まで負担すると書かれている。 けれど、その中心には変わらず一本の鎖が残っていた。 妻であり続けること。「なぜ、そこまでして籍だけを残したいんですか」 詩乃は顔を上げた。 怜司はすぐには答えなかった。 和解委員が静かに二人を見守っている。旭も口を挟まない。これは法的な条件である前に、詩乃が聞かなければならない問いだった。「私が妻ではなくなったら、何が変わるんですか」 怜司の指が、机の上でわずかに動いた。 長い沈黙のあと、彼は低く口を開いた。「お前が妻でなくなれば、俺はもう、お前にとって何者でもなくなる」 詩乃の胸が、小さく痛んだ。「奏音の父親です」「それだけでは足りない」 その答えは、あまりにも正直だった。 詩乃は息を呑む。今の怜司は、以前のように無関心ではない。奏音の薬を覚え、面会時間を守り、詩乃の入室が必要な時には病院側へ記録を残させた。自分の過ちを法廷で認め、鷹宮家に不利な証拠も出した。 だからこそ、苦しかった。 無関心なままの男なら、ただ憎めた。けれど目の前の怜司は、遅すぎる後悔を抱え、父親になろうとしながら、それでも詩乃を手放そうとしない。「私を愛しているのではなく、失うことが怖いだけです」 怜司は否定できなかった。 否定してほしかったわけではない。けれど、沈黙はいつも真実の近くにある。詩乃はその沈黙を聞きながら、七年間の自分を思い出した。名前を呼ばれるのを待ち、帰らない夫のために食事

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status